三浦綾子入門 番外編.三浦綾子さん関連番組その1前編
番外編.三浦綾子さん関連番組その1前編
ここでは三浦綾子さんに関連するテレビ番組あるいはラジオ番組などに関する情報を提供していきます。
まずその1として、1999年12月25日にNHK(ラジオ)で放送された「ラジオ深夜便『北の文学・作家三浦綾子さんを語る』」の放送を書き起こしてみました。二時間番組でしたが、まずは前半一時間分を「前編」としてお送りします。
この放送のゲストとして三浦綾子さんを語っているのは三浦綾子記念文学館の館長でもある文芸評論家の高野斗志美さんです。(三浦さんの本の後についている解説などたくさん書かれているので名前を見かけたことある人は多いと思います。)
1999年12月25日(24日深夜)放送
「ラジオ深夜便 北の文学・作家三浦綾子さんを語る」より
ゲスト:高野斗志美さん
司会:
今年10月12日に亡くなられた旭川市出身の作家・三浦綾子さんの人となりと作品、それを産んだ北海道の風土などについてお話ししていただきます。
スタジオには文芸評論家で三浦綾子記念文学館館長の高野としみさんにお越しいただきました。
高野さんよろしくお願いします。
高野:
よろしくお願いいたしします。
(三浦綾子記念文学館について)
司会:
高野さんが館長を務めていらっしゃいます三浦綾子記念文学館、去年の6月にオープンしたんですねぇ
高野:
そうですね、去年の6月13日に旭川にあります神楽の外国樹種見本林の中にできました。
これは全国から一万五千人を超える市民の方たちが力を合わせまして、旭川を中心にしまして、そういう市民運動の力を結集してできあがった民立、民営の文学館でございまして、三浦綾子さんの仕事を末永くお伝えしたいということでできあがりました。
司会:
あの、いまお話にありました見本林というのは「氷点」の舞台になったところですね
高野:
そうですね、特に氷点のラストシーンにあります陽子が自殺を図った、美瑛川を後ろに控えました大変に印象深い風景をもった土地ですね。
司会:
この場所にそういう記念文学館ができましたことは三浦綾子さんご自身も大変喜ばれたでしょうね。
高野:
ええそうですね。そしてどうかもう一度みなさんがこの文学館に足を運んでくれるように、そういうふうにもう一度来てみたい、そう思うような文学館にして欲しいと、切に願うとおっしゃっておられましたね。
司会:
その去年の6月のオープンの際はご自身も参加されたんですね
高野:
そうですね。光世さんに支えられですね、お亡くなりになられましたけども秘書の八柳洋子さんという方がおられるのですけれども、その(二人に)両側を支えられまして、元気にとってもうれしそうにオープニングセレモニーに出られたことをありありと思い出します。
(三浦綾子さんの足跡~作家になる以前)
司会:
あぁそうですか。長い闘病生活のすえに今年の10月12日に77歳の生涯を閉じられた三浦綾子さんですが、その三浦さんの足跡をたどっていきたいと思います。
まず作家になる前の三浦さんのお話からうかがいたいと思います。
高野:
あの~、三浦さんの場合は、お話しするときはいつも私、言うんですけれども四つの自伝小説があるんですね。
小さな頃を書いたのが「草のうた」という自伝小説です。それから小学校を終えてですね女学校を出てそして学校の先生になってそして敗戦を迎えるというその足取りを描いたものが「石ころのうた」という自伝小説ですね。それから1945年から氷点という小説で文学界にデビューするまでの足取りを書いたものが「道ありき」という自伝小説ですね。氷点で出発した以後の、結婚生活を描いたのが「この土に器をも」という自伝小説ですね。
それをもとにしてご紹介をしたいと思うんですけれども。
司会:
はい
高野:
三浦綾子さんにとって大きなターニングポイントというのはひとつには1945年8月15日の日本の敗戦ということですね。
これはあの、三浦綾子さん、堀田綾子さんと当時は呼ばれていましたが、学校の先生、教師をしておりましてその教師の間というのはいわゆる戦争中でしたのでたいへん一生懸命に、熱心に子供を教えていく非常に教育熱心な先生だったわけですね。子供が大好きだったという、そういう先生です。そしてあのその考え方というのは当時の日本人がすべてそうであったように、国家の行う戦争というのは正しくて清い戦争だという、つまり聖戦であると信じ込んでいたわけですね。(他の)日本人と同じように堀田綾子先生も日本の国柄、天皇を中心とする絶対主義、軍国主義をですね、そういう国のありかたに疑いを持たないで一生懸命に子供たちを教えてきたわけですね。
そういう価値観が全部壊れてしまうのが1945年の敗戦というわけだったのです。その時に受けたショックというのが非常に大きいわけですね。そのために今までの自分の生活やあり方に根本的な疑問を持つわけです。
そしてこれ以上先生を続けることはできない、とそう思って1946年、昭和21年3月をもって学校の先生を辞める、これは旭川の小学校でしたけれども、やめるわけです。 その後の堀田綾子さんの足取りは非常に荒れたものになるわけです。
司会:
ほう
高野:
自分が信じた国家権力に裏切られたと、この絶望感というのは取り返しがつかない、どんな力によっても癒えることはできない。そういう自分というのが信じられないと大変に苦しむわけです。毎日毎日荒れはてた生活を続けていく。その間に結核という病気にかかり、そして療養生活に入るわけです。
その前に現れたのが幼なじみの前川正という人なんです。 この人が非常にそういう失意と絶望と荒れ果てた生活を送っている堀田綾子さんを心配するわけです、小さな頃から知っていましたから。 この方もやっぱり結核でもって札幌にいたんですけれども北海道大学医学部を休学して旭川に療養のために帰ってきていたわけです。
で、たまたまそういうことで二人は出会うわけです。そして病気の体をお互いに持ちながら交渉が始まるわけですが、今言ったように非常に堀田綾子さんのことを心配する、そして有名な話があるんですけれども、これは「道ありき」ですね、旭川に春光台というところがあるんですけれども、その丘のところを二人で歩いていたときに、やはり堀田綾子がですねまじめな態度をとらないと、その時に前川正さんが急に草の中に座り込んで傍らの石をつかんで、自分の足を強く打つわけです。そのことによって堀田綾子さんは非常に驚くわけです。
(途中臨時ニュースで中断後、再開)
司会:
高野さん、先ほど三浦綾子さんを前川正さんがいさめたというお話、そこまでうかがいました。その後三浦さんはどういう経過をたどるのでしょうか。
高野:
その時ですね、はじめて堀田綾子さんの心にかすかであるけれども立ち直る希望の光が見えてくるわけです。
そして前川さんと一緒に札幌へ行き、札幌医大で診察を受けたところがはじめて病気の大きな原因であったものがはっきりするわけです。 その結果、脊椎カリエスであることが判明するわけです。そして直ちに病院では絶対安静を命じるわけです。そしてあの、ギプスを全身にかけてベッドに寝たっきりになるわけです。ですからいわば、昭和21年の発病から始まった13年間の闘病生活がそこで本格的に始まるわけです。
その時に堀田綾子さんははじめて自分の心が安らかになったということを感じるわけです。そして直ちに病床に牧師さんをお招きして、そしてキリスト教へ向かうつまり受洗をする、病床で受洗をされキリスト者になっていくわけです。そしてやっと魂の組立というのがそこでできて、新しい希望がそこに生まれるわけです。
ところが、それは昭和27年なんですけれども、昭和29年になりまして自分を導いてくれた前川正さんがですね、やはり同じ肺結核でしたが手術の失敗で急にお亡くなりになるのです。 それで非常なショックをまた受けてですね、一年間ほどはほとんど誰にも会わないで闘病生活を続けたわけです。
その前に現れたのが、不思議なご縁としかいいようがないのですが、非常に前川正さんと姿、形、声、ものの考え方が似ておられる一人の男性、つまり今の三浦光世さんがお見舞いに訪れることになるわけです。
そして非常に前川さんに強く心を残しながらも実際にいろいろな話し合いをしていく中で光世さんに心を惹かれていきまして、結婚しようというふうに決心していくわけです。光世さんの方はですね、「いや、今あなたがここにいるのは前川さんのおかげなんだと、その前川さんのそういうお力を大事にするための私たちは深く愛し合って共に手を携えて生きていこうではないか」と、こういうふうに言うわけです。
で、前川さんもクリスチャンでありましたし、また三浦光世さんも同じくクリスチャンであったわけですね、バイブルの上にお互いの手を重ねるようにして愛を深めていって昭和三十四年にお二人は結婚をなさる、そういう足取りをとるわけです。
今までお話をしたように戦後のいわば三浦綾子さんにとってのポスト戦後、そういう生活をずっと綴ったものが、これは昭和三十八年に主婦の友に発表された「太陽は再び没せず」という手記なんですよね。これが昭和三十八年の新年号に発表されますと全国から「非常に感動した」というメッセージがたくさん届くわけですね。それを見てですね、もうすでに三浦綾子さんになってますけれども、三浦綾子さんは「大衆が読む雑誌に、ものを書くということの大切さをこれほど痛感したことはないと、もし今後こういう機会が与えられるならば、才能はないけれども私はできる限りこの機会を活用したいと、やはりものを書いてみたい」と、そういうふうに言うわけです。
そういう準備があって初めて氷点を書いていく心の用意ができるわけです。そして昭和三十八年いっぱいかかって氷点を書きましてこれを朝日新聞社に送る、いわゆる一千万円の懸賞新聞小説ということになって、これが昭和三十九年(1964年)に入選して文学界にデビューを果たすと、こういう足取りがあったということができると思います。
(三浦綾子さんの足跡~作家としての三浦綾子)
司会:
はい、そして作家になられた三浦綾子さんのお話をこれから伺って参りたいと思いますがひとことで言うと三浦さんはどういう作家ということができますか
高野:
そうですね、三浦綾子さんをもし一口でいえばどういう作家といえば、やはり庶民の立場に立ってそれを一貫させながら、人間はいかに生きていくべきなのか、ということをですね骨太に問いかけた作家であるというふうに言うことができると思うのです。
デビュー作は氷点ですけれども、氷点のところではいわゆる人間の自己中心的な生き方ということを問題にしているわけです。主人公は陽子という少女になるわけですけれどもその陽子を中心にしましていわゆる陽子の家庭の中で起きる、夫と妻の自己中心的な生き方がどれだけ他人を傷つけそして自分自身をも亡ぼしていくということ、それが的を外れた生き方ということになるんだということを描いた非常に力のこもった物語になるわけです。その中で陽子が感じていくのは、罪が無いというふうに思っている人間も自己中心で自分が正しいと思いこんでいる限りはいつかは罪を犯す可能性を持っているのだということを感じるのです。それが「原罪」ということになるわけです。 その他にそういう原罪というのを三浦綾子さんは「的を外れた生き方」と言っていますね。
あるいは今度は次に「ひつじが丘」というのを書きまして、「塩狩峠」に入りますけれども「塩狩峠」では他人のためにいかに愛を捧げ尽くすことができるか、という問題、つまり愛ということが人間にとってどれほど大切なのかということを塩狩峠で明らかにした。これは翻訳されたものの中でも一番読まれている作品でして非常に多くの人たちに感動を与えているということがあります。
司会:
主人公の長野信夫さんというのは実際に長野政雄さんという方がいらっしゃったそうですね。
高野:
そうですね。これは明治の話になるわけですがそれを現在の、いわば私たちが生きる現在に重ねて描ききった名作のひとつであろうと考えられます。
そのほかには最後、晩年になりまして「銃口」というのがありましてこれは昭和を生きた庶民の歴史を物語っているものでして、具体的には北海道綴り方教育連盟事件という実際にあった事件をモデルにして書き上げた物語ですね。
(再度、臨時ニュースで中断後、再開)
司会:
高野さん、先ほど銃口のお話までうかがったのですがこの銃口というのは三浦さんにとって敗戦の経験とつながる社会に対するメッセージでもあったわけですね
高野:
そうですね、いかに生きるかという場合に三浦綾子さんは自分自身どういきるかということと、他人に対してどう生きるかということと、それから社会に対して人間はどう生きるべきなのかということを考えるわけですけれども、「銃口」というのは日本人と社会、日本と日本の歴史・昭和という関係を非常に深く追求した作品が銃口であると思います。
一貫して三浦さんの作品はいかに生きるかを自分自身に問い、他人に向かってさらに問い、そして社会に向かっても問い続けていくという非常に骨太なテーマをもった作家であったということが言えるのでありまして、この方が早々とお亡くなりになったということは非常に残念であるし、ご本人もやはりもう少し書きたかったなと思っておられると思いますけれども。
(三浦綾子さんの足跡~夫・三浦光世さんのこと)
司会:
作家としての三浦綾子のお話を伺ってきましたが、この三浦綾子さんを支えたご主人の光世さん、この光世さんとの二人三脚というのも大変仲のよいご夫婦であったんですね。
高野:
そうですね、結婚をする時から男性は女性を対等の人格者として認め、女性の方も男性を自分と対等の人格者と認め、その上で人間としての愛を紡いでいくのだという、そういう確固たる信念の下で二人は結ばれているということがあります。
そして塩狩峠という小説の半ばからすでに夫の三浦光世さんがですね、綾子さんのために口述筆記を始めておられるんですね。 ですから初期から口述筆記をずっとやっておられてわけで、それが最後まで続くわけですから大変なことで、これは文学的なことを言えば、コラボレーションといって、共同作業ですけれども、特にそういった点では三浦光世さんは三浦綾子さんの最もよき共同者であったということが言えると思います。松本清張さんが驚いたほどの口述筆記で・・・
司会:
絶妙の呼吸だったそうですね お二人はいつも一緒で、散歩それから意外だったのですがカラオケもお好きだったようですね
高野:
そうですね三浦綾子さんというのは先ほど言いましたようにいかに生きるかを骨太に問うということでですね、世間では大変お堅い人間のように思われているようですけれども、しかし一面、非常に茶目っ気がありましてカラオケが特に歌が好きで、踊るのが好き、非常に茶目っ気があって、ユーモアがあってとっても人間的な側面というのを豊かに持っておられた方ですよね。
最近のことになるのですが、北海道開発功労賞をもらった時に、そのパーティーで札幌にいる作家の小檜山ひろしさんの奥さんに急に歌を歌えということで、それで歌を歌ったんですけれども、まあカラオケですけれども、これはこの種の公のパーティーでは初めての出来事であったようです。そんなふうな茶目っ気たっぷりなところがあってですね、みんなを笑わせるということですね。
司会:
高野さんも歌わされたことがあったんじゃないですか
高野:
そうですね、僕も何回か注文されまして下手くそな歌を歌って笑われたことがありましたけどもねぇ
司会:
お二人はそして結婚直後から毎年欠かさずこの時期に子供クリスマス、近所の子供たちを自宅に招いてクリスマスの会を開かれていました。今年は12月27日に光世さんおひとりになってしまいましたけど自宅で開かれるそうですね。
高野:
そうですね、その準備に取りかかっていると思いますけれども。いつも光世さんがサンタクロースになりまして、たくさん子供たちが集まるんですよ、そして子供さんたちみんなにプレゼントするわけですけれども、今年も同じように今はない綾子と一緒に心を合わせるような形できっとおやりになるだろうと思います。
司会:
あぁそうですか。
さあそれではここで、三浦綾子さんが大好きだった「赤とんぼ」をですね最愛のご主人、光世さんの歌でお聞きいただきたいと思います。
(しばし、光世さんが歌う「赤とんぼ」が流れる・・・ そして、歌が終わり)
司会:
高野さん、光世さんご自身の歌ですが、すばらしい声ですねぇ
高野:
はい、光世さんの声には定評がありまして、この赤とんぼは十月二十五日の旭川市民による作家三浦綾子さんを偲ぶ会でもってですね、一番最後に光世さんが、綾子さんが好きだったということでこの歌を、まず一番を歌いあとは全員でもって合唱してですね、でお送りしたというそういういわくもあります。
司会:
あぁそうですか。めったにきけない三浦綾子さんのご主人・三浦光世さんの歌で、綾子さんが大好きだった赤とんぼをお聞きいただきました。
(以上で前半の放送が終わりました。後編をお楽しみに)
2001-06-24Update

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